From アムステルダム

新聞のデザインとは

新聞のデザインとは アムステルダムの話題に特化した日刊紙Het Paroolが、2年連続で世界のベスト新聞デザイン賞を受賞した。これは、毎年アメリカの「ニュースデザイン協会」が優れたデザイン性の新聞にあたえる賞で、同紙の知的なタイポグラフィと明快な情報の階層化を高く評価。今年は、ドイツのDie ZeitとアメリカのThe New York Timesと並ぶ受賞となった。2年連続受賞という快進撃の立役者は、2016年に同紙のリニューアルデザインを手がけたポーランド人デザイナーJacek Utko(ジャチェック・ウツコ)さん。ワルシャワに拠点を置く新聞デザインのエキスパートで、世界各国の新聞を手がけている。 そんな彼に、新聞のデザインとは一体何なのかを聞いてみた。 新聞のデザインとは、コンテンツのデザインのこと 「新聞のデザインとは、単刀直入に言えば、コンテンツをデザインすること」厳格な一貫性と豊富なバリエーションの両方が求められる新聞デザインでは、種類も重要度も全く異なる多数の要素をわかりやすく階層化していくための高度なオーガナイズ能力が求められる。同時に、文字が主体であるため、タイポグラフィを熟知している必要もある。そしてウツコさんが決めたデザインのテイストやルールに従って、日々紙面を作る各紙のハウスデザイナーとうまく意思疎通するための、高いコミュニケーション能力も不可欠なスキルのひとつらしい。聞けばきくほど、感性重視のビジュアルを生み出すデザイナーとは異なる仕事であることがわかる。大学で建築を学んだという彼の構築的思考は、この特殊な仕事に向いていたのだ。 「新聞業界は、世界中どこを見ても極めて厳しい状況だ。僕のクライアントたちも皆、新しい読者の獲得に必死。デザイナーとして求められるのは、決して見栄えのいい新聞を作ることではない。既存の読者はしっかりキープし、新しい読者を獲得する紙面を作ること。そして、可読性をあげて、一面から最終ページまで、ロジカルで美しいメリハリを持った流れを生み出すこと。そのために必要なストーリーの方向性やストラテジーをアドバイスすることもまた、僕の仕事のひとつだ」言ってみれば、彼は「新聞コンサルタント」なのである。 大切にしたのは、「折衷主義」というデザインスタイル Het Paroolのデザインの特徴は、エクレクティック。折衷主義だ。「アムステルダムに相応しい新聞とは?と考えた末にたどり着いた。自由でオープンマインド、クリエイティブ、アーティスティックといったこの街のイメージを反映したスタイルだ。これを体現するために、オランダの芸術家ピート・モンドリアンの作風からインスピレーションを得た画面分割と色使いを採用した」とウツコさん。モンドリアン調のリズミカルでモダンなテイストと、古典的な趣のヘビーフォントのロゴが織りなす知的なコントラストは、斬新な印象を与える一方で昔ながらの新聞の装いも色濃く残す。これが彼が狙った折衷主義だ。ちなみに、このロゴをデザインしたスペインのデザイナーLaura Meseguerは、自身のブログの中で「Tiempos Headline BlackとQuarto Blackという2つの文字スタイルを折衷したフォントデザインについて、”基本に返ること”をコンセプトにした」と語っている。実はこのQuarto Black、なんと1570年代初頭にフランダース地方でデザインされたフォントで、以来「オランダ的なテイスト」として広く愛用されていたらしい。 ウツコさんは、紙面に「余白を残す」ことも重要なルールのひとつとした。「適度な余白があると紙面は風通しがよく見え、結果としてオープンで自由、そして現代的という印象を生む」彼が考えるアムステルダムらしさは、こんな形でも体現されていた。 21世紀の紙の新聞に必要なものとは? 21世紀の紙の新聞のあるべき姿とは?ウツコさんは、そんな問いかけを繰り返しているという。「その前に、紙の新聞に存続する意義があるかを考えてみる必要があるのだが・・」と苦笑。究極のそもそも論である。その答えはまだ出ていない。「だがひとつ明らかななのは、紙の存続を考えるならば、デジタル版との明確な区別化は必要だ。掲載情報の区別化はもちろん、見た目や、情報を読むという”体験”にもだ。だからこそ、紙の新聞には古典的なタッチを残すべきだと、私は考えている」多くの読者は、50歳以上が主流。大半が60歳以上だとも言われる中で、若い読者の獲得は各新聞社の重要な目標のひとつ。だがこの時に「若者はモダンなものが好き」というステレオタイプに陥ってはいけないと言う。「調べてみると、若者は思いのほか古典的なものを好むことが知られている。だから、紙でもデジタルでも、若者向けだからといって、むやみに目新しいガジェット的なトリックを導入してはいけない」と、無策に若者にこびる姿勢にも一石を投じる。 Het Parool週末別冊版 オランダ人は、とにかく新聞好きだ! 世界各国の新聞をデザインする中で何か気づいたことはあるかと尋ねると、「オランダ人はとても新聞が好き」という答え。そして「とても頑固で会議好き」「各問題をじっくりと検証し、着実に歩むという印象だ。その時々に全員が次々と問題点をあげてくるので、なかなか前に進まないと思うこともあるが、反面非常にクリアでわかりやすい。その真逆なのかアメリカだ。ブリーフィングはスムーズで、皆が”ファイン”、”グレート”と繰り返す。だが最後にどんでん返しがおこって多くの問題が一度に浮上してくる」もうひとつ、「オランダやドイツを始めとする北ヨーロッパや北欧の新聞媒体は元気。アメリカや東欧は苦しい」という傾向もあるらしい。「だが、全体としては、厳しい状況の中でも顕著な進化が見られる。まだまだ新聞は存続できる!」と前向きに見ている。 1940年創刊の、レジスタンス新聞Het Parool Het Paroolは、ドイツ占領下の1940年、レジスタンス新聞としてスタートした。2004年からは、タブロイド判として販売されている。アムステルダムの地方紙だが、「アムステルダムのニュースが多い全国紙」という位置づけが浸透している。ちなみにParoolとは「暗号」や「モットー」の意味。発祥の背景を彷彿させるネーミングだ。

映画「ワイルド・アムステルダム」

3月15日売りのPENの巻頭ニュースでも紹介したが、3月1日からオランダ全国で上映されている「ワイルド・アムステルダム」という映画、とても面白かった! 人間とともにアムステルダムで暮らすさまざまな動物の生態を、スピーディーな映像とアップテンポな音楽で描き出した異色の自然ドキュメンタリー映画で、どのシーンも背景には見慣れた街並みが広がっていた。役名アバトゥトゥというおっとり系の猫が案内役をつとめている。 この映画の監督マルク・フェルケルクさん(写真):「都会という場所は、”自然”にとっては居心地の悪い場所だと考えられがちだが、動植物は想像以上にしたたかで柔軟。都市環境に適応し、賢く生きている。この映画では、人々の生活のすぐ隣で、こんなにもエキサイティングなワイルドライフが繰り広げられているという驚きを表現したかった。彼らもまた、あなたたちと同じアムステルダマー。この街はほんとうに多彩ですよ(笑)」彼の言う通り、180以上の国籍の人々が住む多文化都市アムステルダムは、約10000種の動植物が生息する生物多様都市でもある。オランダ全域に生息する動植物は約40000種と言われているから、その1/4もがこの街にも生息していることになる。そのうち約300種は、法で定められた保護種。世界の都市に先駆けて、長年生物多様性に力を入れてきた市当局の努力が、確実に功を奏している。映画を観る前フェルケルクさんに、「この映画を観たあとは街が違って見えますよ」と言われたのだが、それがあまりにもホントで驚いた。帰り道に見た街並みはとてもビビッドに見えたし、今までは気付きもしなかった街のディテールに目がいく。そして何よりも、以前よりも温かい眼差しで街を眺めるようになった。 PS EYE映画博物館始め、街の数カ所の映画館で英語版も上映している。機会があれば、是非アムステルダムで観て欲しい一本だ。

The Frozen Fountain

The Frozen Fountain ダッチデザインが好きでアムステルダムを訪れたことがある人なら、「フローズン・ファウンテン」のことはきっと知っているはず。1992年のオープン以来、ダッチデザインの殿堂であり続けるインテリアショップの老舗だ。そのふたりのオーナーのひとり、ディック・ダンカースさんが先週亡くなったと新聞に掲載されていて驚いた。67歳。事故だったらしい。 彼の友人であるデザイナーのピート・ヘイン・エークが、スクラップウッドで棺を作るそう。ピート同様、モノを無駄にするのが嫌いだったというディックさんに相応しい棺になることだろう。まだ駆け出しだったピートの作品を真っ先に買いに来てくれたディックさんとは、かれこれ26年来の友人だったらしい。 デザインへの愛情と冒険心溢れる、インテリアショップの老舗 フローズン・ファウンテンでは、ものを売るだけではなく、新人デザイナーを発掘して発表の場を与えたり、プロダクトの企画制作も行っていた。今では世界的に知られるオランダの大御所デザイナーも、無名の時代からいち早く紹介していた。そんな風にさまざまな形でオランダデザイン界に貢献してきたオーナーさんたちと言葉を交わすたびに、「デザインに対する愛情と冒険心」こそこの店のウリだと感じた。 残されたもうひとりのオーナーであるコック・デ・ローイさんは、NRC新聞の取材に対して、ショップは存続させると話している。ふたりはこれまでも定期的に、どちらかがいなくなってしまった後のことを話し合っていたと言うが、まさかこんなにも突然その日が来るとは想像していなかったに違いない。 私が記事を書いたり写真を撮ったりという仕事を始めたのは、’90年代後半のこと。ダッチデザインが一世を風靡していた頃で、ハイス・バッカーを始め、ピートやリチャード・ハッテン、テヨ・レミ、ヘラ・ヨンゲリウスなど、オランダのデザインレーベル「ドローグ・デザイン」の旗手たちのインタビュー記事を書き続けていた。今だから白状するが、当初私にはドローグ・デザイン特有のコンセプチュアルで哲学的な「デザイン言語」がちんぷんかんぷんだった。それでも仕事のためにと一生懸命見て、読んで、(そしてファンになって)、かなりの苦行の末にようやくかたことではあるけれど、デザイナーたちと共通の言語でコミュニケートできるようになったのである。そんな私にとってこのショップは補習校のような存在で、しゅっちゅうのぞきに行っては親切なオーナーさんたちに作品を解説してもらっていた。 2005年の取材では・・・ 随分前になるけれど、ディックさんのインタビュー記事を作ったことがある。その中で彼は、「家具や雑貨なんて所詮モノにすぎないが、どうせならポジティブなスピリットのあるモノに囲まれて暮らしたいよね」と言っていた。「常に”今”を語る作品を扱っていきたい」とも語り、「”今”は刻々と変化するから、僕らのコンセプトは据え置きでいいんだ」と笑っていた。 私の仕事場には、フローズン・ファウンテンで買ったものがたくさんある。これからも、大切に使い続けよう。

シベリアのクマと運河スケート

この写真は、3月3日に撮ったもの。 つい1ヶ月半前には、観測史上最も気温の高い1月24日を記録していたオランダ。でもこの10日ほどは一転して、シベリア寒気団の影響で寒い日が続いていた。シベリア寒気団は、「シベリアのクマ」とか「ロシアのクマ」とも呼ばれていて、運河スケートを楽しみにする人たちにとっては冬待望の来客。街の運河を管理する「ウォーターネット」も、水が凍りやすいように水門を閉めて流れを止めたり、ボート航行禁止区域を設けたりしていた。 そんな努力のお陰で、プリンセン運河の一部を始め各所に厚い氷が張り、街中がスケートリンクに変身。こんな風にアムステルダムの運河が凍ったのは6年ぶりだ。 3月3日には最高気温が0度を超えると予測されていたので、「今日が最後」とばかりに早朝から大勢の人たちが氷上に繰り出した。私も氷の上を歩いてみたが、子供達がとなりを走り回る度に足下がユラユラ〜。カメラを持っていたこともあって、早々に切り上げて陸上からの眺めを楽しむことに。 昼過ぎには予報通り気温もあがり、シャーベット状態になった箇所や水たまりも目に付くようになっていた。たまたま寄ったプリンセン運河沿いの文房具店の店長さんが外を指さして、「さっきあっちの方で60代の女性が水に落ちたらしいわよ。夕べだって、パトカーが”氷の状態は不安定なので氷上に乗らないように”とスピーカーでアナウンスして回っていたけど誰も聞きやしない。何年かに一度のことだから気持ちはわかるけど、やっぱり危ないわよね〜」と眉をひそめた。 夕方までには何人かが水に落ち、急患を搬送するヘリコプターまで出動・・・。こうなると予測しつつも凍った運河を素通りできないのは、スケート大国オランダの人々の悲しい(?)サガなのかもしれない。 (写真をクリックするとカルーセルになります)

世界一、市民に愛された市長

世界一市民に愛されたアムステルダム市長、エバーハード・ファン・デル・ラーンが末期癌のため辞任。市民に永遠の別れを告げる手紙を発表した。

ディア・アムステルダマース

ディア・アムステルダマース、悪いお知らせがあります 1月27日、ファン・デル・ラーン市長(1955)から市民へ宛てたオープンレターはこう始まった。肺がんが転移していて、「希望的になる理由が見当たらない」診断結果が出たという報告だった。そして責任をしっかりと果たせるように手配をしながら、「まだしばらくはみなさんの市長でいます」とあった。 ファン・デル・ラーン市長は2010年、スター的な雰囲気のあった前コーヘン市長の後任として就任。前任者のような華やかさはないものの、人々の声に公平公正に耳を傾け市民に寄り添う「父親」的な人物像で、人気と信頼を得ていた。 「アムステルダマー」とは、アムスっ子のこと。「ベルリナー」や「ニューヨーカー」と同じである。 ファン・デル・ラーンは、この街に住む全ての人々に「アムステルダマー」というアイデンティティを植え付け、育んだ。例えオランダ人ではなくても、この街で暮らし、社会と繋がる全ての人々を、親愛の念を込めて「アムステルダマー」と呼んでいた。 「ディア・アムステルダマース、悪いお知らせがあります・・」約84万人の市民に宛てたこのオープンレター、私も受取人のひとりとして心して読んだ。 (写真は、2014年のゲイパレードの会場にて。市民に混ざって、ビールを片手に見学していたファン・デル・ラーン市長)

移民一世、移民二世

移民一世、移民二世 久しぶりに会ったアジア系移民2世の友人と食事をしていた時のこと。 移民一世と二世の違いの話題になった時、「一世よりも二世のほうが苦労が多い」とその友人。ちょっと待って、聞いたこともない言葉をゼロから覚え、わからないことだらけの社会で生計を立てていく苦労も相当よ・・、その必要がない二世のほうが苦労が多いってどういうこと?と違和感いっぱいで尋ねると、答えはこうだった。 「一世が直面する問題の大半はプラクティカルなこと。移住する前にある程度予測していたはずだし、彼らには母国で育んだ確固たるアイデンティティがある。その上れっきとした外国人だから、よそ者として扱われても納得がいく。だがここで生まれた二世はそうはいかない。オランダ人でもあるわけだが、家の中では両親の祖国の文化で暮らしている。それはオランダ文化とは全く異質で、時には相反する。常にダブルスタンダードで暮らし、自分はどちらの文化からもこぼれ落ちていると感じていた。そのため、アイデンティティは幹がないままに育った。子供の頃、社会の異質な存在として扱われた時には、その体験を自分自身にうまく説明することができず、無関心でいることを体得した。その一方で、属せ切れない社会に対して、いつか自分の立ち位置をはっきりと見せつけて見返してやるという、強い”仕返し”願望を育んできた」 頭脳明晰で才能豊かなその友人は、仕事でも成功している。「運良く自分には、仕返し願望を社会的に認知された成功の糧にする手段があった。だが、もしも全うな仕事や活動に結びつくような特技や才能を持ち合わせていなかったとしたら、この強い願望をどんな形で発露していただろう・・・?」 程度の差こそあれ、二世にはアイデンティティの形成を複雑困難にする特有のメカニズムがあるというのが、その友人の体験に基づく持論だった。 個人の性格や能力、両親の経済状態や受け継がれた文化によって大きく左右するし、その要因の影響のほうが大きいかもしれないので、一束ねに語るのは危険。だが、そんな力学の中で育ってきた人のずっしりと重い「生の言葉」を聞いたあとは、この多文化社会の景色が違って見えた。

クリエイティブディレクターが提唱する「失敗のススメ」=エリック・ケッセルス

少し前、6月15日売りのPEN「クリエーターの愛用品」特集の記事をつくるために、クリエーティブエージェンシーKesselskramerの主宰者エリック・ケッセルスから話を聞いた。今回は、その時のこぼれ話。 エリックと言えば、世界中の蚤の市や骨董品店で見つけた昔のアルバムや写真から新たな物語を紡ぎ出す達人。それらは、”USEFUL PHOTOGRAPHY”, “IN ALMOST EVRY PICTURE”など、写真集シリーズとして出版されているほか、展覧会にもなっている。最近では、「アルバムビューテー」という家族アルバムをテーマにした彼の巡回展が、宮城県塩竃で開催されていたらしい。 世間に浸透しきった価値観を疑うことなく受け入れ、おまけにそれにがんじがらめになっていると「完璧中毒症」になってしまうと言うのがエリックの持論だ。その最大の弊害は、新しい価値観や世界観を生み出さないこと。そして挙げ句の果てに「不完全」なものに対する不寛容さを増長する。 長年、「もっと失敗しようよ」と言い続けてきたエリックが、その哲学をとてもわかりやすく、しかも(ブラック)ユーモアたっぷりのシャープな表現で綴った「FAILED IT!」(PHAIDON)という本を出版した(英語)。「失敗のススメ」とも言える一冊だ。失敗は、それを嘆くかわりにインスピレーション源にし、これまでになかったユニークなものを生み出していこう!と、歴史上の偉人たちの言葉を交えて説いている。「真のクリエーションのためには、大恥をかくことだっておそれるな!」という痛快な呼びかけに、背中を押される読者も多いに違いない。日本語訳も早く出るとよいと思う。 脱!完璧中毒症 Fail to Find Inspiration アートディレクターやデザイナーなど、クリエーティブな仕事に携わる人に向けて書かれたというこの本。各チャプターは、短い文章と写真で構成されている。 例えば、「巨大な指の襲撃」というチャプターでは、カメラレンズの前に指がつきだしてしまった写真シリーズを例に、一見「失敗」と思われるものの中に新しいポテンシャルが潜在していることを説いている。スマフォやコンデジで写真を撮る時、うっかりレンズ前に指が覆い被さっていたという経験はほとんどの人にあるはず。カメラが小型化するにつれて、このリスクも上がる。大きさや肌の色、構図もさまざまなピンぼけの指の写真をずらっと並べて見ると、なんだか別次元の現実が立ち上がっているようで妙にシュールだ。 ・・・このような写真は、近年消去されることはあっても保存されることは希だ。(中略)だが、パーフェクトではない写真というものは、あとになってはじめて、あながち失敗とは言い切れないことがわかる。それは「別物」の誕生なのである。・・・ 当たり前でないものを見る時のほうが、人のファンタジーは活発に働く。見る人の内面に何も起こさないまま、そこそこの心地よさとともに通り過ぎていくようなクリエーションは、エリックにとっては「退屈」なのだ。そして、「そんな退屈なものが良いといわれる世間の価値観も疑ってかかれ」とエリックは示唆している。 この本の紹介用にもポートレートを撮らせてねと頼むと、「じゃあ、まるで何事もなかったかのような顔して本は逆さまに持たないとね」とエリック。うんうん、そうしよう!と彼のデスクがある2階へ移動。さあ、とカメラを構えて数枚撮ったところで同僚ふたりが上がってきて、カメラを構える私を見つけてびっくり!私もびっくり!題して、「驚くふたりとエリック」

ミラーズ・アンド・ウィンドーズ

ミラーズ・アンド・ウィンドーズ 「ミラーズ・アンド・ウィンドーズ」(鏡と窓)とは、1978年にMoMAで開催された写真展の名前だ。原題は:Mirrors and Windows =American Photography since 1960= 写真を、自己の内面を写し出す「鏡」と、外の世界を探求する「窓」とに分類した興味深い展覧会だった(カタログしか見ていないが)。もちろん全ての写真を「どっち?」と決めるのは甚だ無理な話で、そういう分類は短絡的という批判もあった。だがなぜか、「ミラーズ・アンド・ウィンドーズ」というフレーズは脳の奥深くにインプットされ、私の物事の受け止め方に大きく作用するようになったのである。 25年以上前にオランダに引っ越してきてから数年は、ライデンという学生街に住んでいた。楽しいこともあったはずなのだが、それがほとんど思い出せないほどオランダ生活はピンと来なかった。 けれどもしばらくしてからアムステルダムに引っ越して来ると、あっと言う間にそれまで抱いていた違和感は吹き飛んだ。ちょうどその頃、私は晴れてバツイチとなり、そのついでに、と言ってはナンだが、オランダ国籍を取得した。利便性を考えてのことで、決して日本がいやになったからでも、オランダが前よりも好きになったからでもない。それに、オランダのパスポートを手にしたからと言って、全く「オランダ人」になった気はしない。だが、「アムステルダム」に関しては話が別だった。住民票をこの街に移し、起業して商工会議所に登録したとたん、むくむくと「私はアムステルダマー」(アムスっ子)という気分が高まった。当時のアナーキーなサブカルシーンや、寛容と過激さを包括したようなダイナミックな空気感と相性がよかったことに加えて、この街が私の「鏡と窓」となり、新しい世界を見せてくれると直感したからだろうと思う。 MoMAの展覧会のコンセプトとどれほど重なるかはさておき、この街のありようは内なる(社会的)精神性を如実に表しているし、街を覆う空気感は、激しく変化する世界を敏感に映し出す。気が付けば私は、常にこの街を通して世界を眺め、この街で描き上げた「世界地図」を手に旅をしているのだ。

世界初の同性婚から15年

15年前の4月1日、アムステルダムの市庁舎で世界初の同性婚の結婚式が執り行われた。この日、4組の同性カップルが婚姻届を提出。当時市長を務めていたヨブ・コーヘンが式を執り行った。2001年のオランダに続いて、2003年ベルギー、2005年スペイン、カナダ、2006年南アフリカ、2009年ノルウェー、スウェーデン、2010年ポルトガル、アイスランド、アルゼンチン、2012年デンマーク、2013年ニュージーランド、ウルグアイ、フランス、ブラジル、2015年ルクセンブルグ、アメリカ、アイルランドと続き、2017年にはフィンランドでも同性婚が合法化されるらしい。 2001年4月1日から2015年末までに正式に結婚した同性カップルの数は21330組。最初の2年は男性同士が、2009年以降は女性同士の夫婦が増えている。同性の夫婦も両親として養子をとれるし、どんな差別も違法であるから、オランダのLGBTはとても幸せに暮らしている・・・と思いきや、課題は山積みのようだ。 多文化社会とホモフォビア LGBTの人権擁護のためにさまざまな取り組みをするCOCという機関が発足したのは1946年。その昔はオランダでも罪人扱いされていたLGBTの人権をたゆみない努力で改善し、パラダイムシフトを起こしてきた。その功績は数え切れない。2012年、学校でLGBTに関する情報提供を義務化2014年、地方自治体は同性愛カップルの結婚式を執り行うことを拒否する人を採用しないことを決定オランダに来たイラク、イランからのLGBTの難民が、祖国へ送還されないよう配慮などなど、上記はほんの一例だ。ある統計によれば、1968年にはLGBTに対して批判的な見方をしていた国民は36%だったが、2008年には4%にまで下がった。 だが、寛容の国と言われるオランダでも、LGBTが誰からも、そして心から受け入れられるようになる日は来ないかもしれない。けれどもそんな夢のような理想を掲げる必要はないのだ。この多文化社会では、それぞれの文化が持つパラダイムが根本的に異なるし、時代に合わせてシフトしていくスピードや方向性も全く異なる。大切なのは、法律で平等を確保し、差別を禁じること。そしてそれがどれだけ自分の価値観と異なるとしても、法として例外なく律していくこと。言うのは簡単だが、COC発足から70年たった今でも、やはりホモフォビア関連の傷害事件はなくならない。 どれだけ一見単一文化に見えても、社会は必ず異なる文化から成り立っている。ましてオランダは、180カ国以上の国籍が混在する筋金入りの多文化社会だ。LGBTだけではなく、移民、難民、宗教、国籍等々の他、最近は収入の格差も大きくなり、「あなた」と「わたし」を区別する要素が社会に溢れている。それを摩擦や差別、極化へと発展させないためには、社会に相当な成熟度が要求される。まさに、茨の道を行くような進化が求められているのだ。オランダの大人達は(政治家も含めて)今、ほんとうに成熟した社会を目指しているだろうか?答えがあるわけではないけれど、ニュースを見ながらよくそんなことを考える今日この頃だ。 ウィキペディアに掲載されている地図を見ると、同性愛が重い刑、終身刑、死刑になる国も多い。どの国にいるのかが運命を分ける。そんなことを再認識してしまう。

アウトサイダー・アート・ミュージアム2

日本のアウトサイダー・アートにフィーチャーしたアウトサイダー・アート・ミュージアムの特別展で、ひときわ注目を集めたのは澤田真一の作品だった。とげとげがたくさんついたフィギュアの陶芸で知られる氏の作品は、2013年のヴェネチア・ビエンナーレにも出品されて、多くの人々を魅了した。一緒に見ていた人たちの足も彼の作品の前でぴたりととまり、皆しばらく微動だにせず見入った。そんな張りつめた空気を緩めるように、「日本のアウトサイダー・アートは本当に素晴らしいですよ」と館長のハンス・ローイエンさん。「Shinichi Sawadaは、自閉症のアーティストです。私も彼に会いに行きましたよ。制作に集中していたので、私の存在にはあまり関心を持ってもらえませんでしたがね」 澤田真一は1982年生まれ、滋賀県が拠点だ。ローイエンさんによれば、日本のアウトサイダー・アーティストたちの一番の特徴は、何かひとつのことを極めようとする意匠だと言う。伝統的な職人技のように、繰り返しの先にパーフェクションを追求しているのだ。「そんなクラフト的なパーフェクションが生み出すディテールには、とても日本的な美意識がある。それは、文化よりもさらに深くDNAに刻み込まれたものであると感じる」と言う。 クリエイティビティの源はなんなのだろう・・と深く深く考えさせる美術館。日本人アーティストにフィーチャーした特別展は11月まで。その次は中国の作家展が予定されている。カタチを与えられることを強烈に欲して生まれてきた目の前の作品に、「さあ!」と肩を叩かれたような(いい)気分になって(どんな気分だか・・)仕事場に戻り、これを書いている。この美術館は、3月17日にオープンする。 (写真:常設展、特別展を含む館内 © kiyomi yui)

アウトサイダー・アート・ミュージアム

オランダ初の、アウトサイダー・アート・ミュージアムがオープンする。 3月17日、ロシアのエルミタージュ美術館別館「エルミタージュ・アムステルダム」の一角に、国内外の名作アウトサイダー・アートを集めたオランダ初「アウトサイダー・アート・ミュージアム(OAM)」がオープンする。 これは、ハールレムにあるヘット・ドルハウス美術館、福祉ケア会社コルダーン、そしてエルミタージュ美術館の3者のコラボレーションで誕生したミュージアム・イン・ミュージアムである。他にも、アムステルダムのアウトサイダー・アーティストの作品を展示するギャラリー、コルダーンが運営する障害者のためのアートアトリエが館内に同時オープンする。 アウトサイダー・アートとは、アカデミックな芸術の訓練や影響を受けていないアーティストの作品を指すとあるが、その定義は難しいらしい。さまざまな障害を持つアーティストの作品も多く、「アウトサイダー」という呼び方にも社会的な議論があるそう。けれどとりあえずここでは、その辺の話は全て置いておくことにして・・・。 第一弾は、日本のアウトサイダー・アート展 ここに展示されている作品はヘット・ドルハウス美術館の所蔵品で、常設展と並んで半年毎に入れ替える特別企画もある。その第一弾は日本のアウトサイダー・アート展で、11月まで開催予定だ。 館長のハンス・ローイエンさん曰く「アウトサイダー・アートは、精神的、知的障害を持ったアーティストが中心に活躍する場と解釈され、芸術療法の延長とみられがち。だが、この美術館では、そういったコンテキストとは関係なく、純粋に芸術性の高い作品だけを集めている。今までオランダでは活発には開拓されてこなかった分野だが、近年注目度もあがっている。エルミタージュという格式ある美術館の中に併設されるということは、この分野の成熟にも役立つはずだ」。近年このようなアートに注目が集まる背景については、「真のクリエイティビティはどこから生まれるのか」という問いかけに関心が集まっているからだと言う。 3月16日に行われたプレスプレビューに訪れた人たちは、半分がアート関係や一般メディアのひとたち。そしてあとの半分は、福祉関係者や、自閉症、認知症などの専門誌の編集さんなどで、多角的な方面から関心が集まる美術館であることが伺われた。 続く

2月のストライキ(ナチス時代のアムステルダム)

2月のストライキ =ナチス時代のアムステルダム= 2月25日の11:00、アムステルダム中のトラムが1分間止まった。 車内放送からは、ファン・デル・ラーンアムステルダム市長の声。 「1941年2月25日火曜日の朝、トラムは走っていませんでした。乗務員たちは(ドイツ占領軍による)街の同胞であるユダヤ人迫害に対する抗議の意の表明としてストライキをしたのです。約1万人のアムステルダム市民が<2月のストライキ>に参加しました」 そしてこの1分間の停車が追悼のためであり、「2月のストライキ」が人のために立ち上がるという行為の象徴として街の歴史に刻まれていると説明。同日16:30よりヨーナス・ダニエル・メイヤー広場でこの記念式典を執り行うことも告知した。 同胞のために奮起した、アムステルダム市民 1941年2月のこの抗議運動には、公共交通機関の従業員や公務員、港の労働者たち、店員など約1万人が参加した。翌日にはヒルヴェルサムなどの他都市にも飛び火したが、大規模な抗議運動に驚いたドイツ軍はすぐにこれを武力で鎮圧。参加者には死者も出た上、多くの人々が投獄された。スト実施の中心人物も投獄され、後に処刑されている。 この抗議運動の直接の引き金となったのは、1941年2月22日と23日に起こった出来事だった。市内ユダヤ人地域にあるヨーナス・ダニエル・メイヤー広場に427人のユダヤ人男性が集められ、その家族らが抗議する中、ドイツ軍によって強制収容所へと連行されていったのだ。これに怒った市民たちが決起したのが「2月のストライキ」である。ナチス占領下のヨーロッパで、公に実施された唯一の大規模デモである。 毎年2月25日にこの広場で記念式典が執り行われているが、75年という節目を迎えた今年は国王も臨席。ファン・デル・ラーン市長自ら式典の告知・広報に尽力した。 積極的にユダヤ人狩りに加担した、オランダ こうして、一度は街の同胞のために奮起したアムステルダムだが、その後は一変してユダヤ人狩りに加担する動きが広まっていく。 オランダでのユダヤ人逮捕率は、他の欧州諸国よりも高かったらしい。ユダヤ人ひとりあたり7,50ギルダーの懸賞金をかけ、積極的かつ組織的に検挙していくオランダ人の協力的な態度を、ナチスは高く評価していた。ナチス占領下でこのようなシステムを導入していた国は他に例がなく、懸賞金と引き換えに逮捕されたユダヤ人の数は、1万人にも上ると推測されている(歴史家Ad van Liemptによる)かのアンネ・フランク一家も、このような動きの中で密告され逮捕されていったに違いない。 1944年の秋になると、懸賞金は40ギルダーに跳ね上がった。(当時の7.50ギルダーは現在の約47ユーロ。1944年当時の40ギルダーは242.55ユーロ) 「2月のストライキ」は、市長が言うように、他の人のために立ち上がる人道的行為の象徴であったと同時に、わずかな月日の間に街の空気を塗り替えた民意の豹変の証人でもある。 ストライキに参加した港湾労働者を象った記念碑がたつヨーナス・ダニエル・メイヤー広場には、近年2月22日、23日の強制連行の様子を記録した写真が常設されている。これらの写真は、本国への報告のためにナチスが撮影したもの。写真現像の発注を受けた市内の写真屋がこっそりとプリントしていたものが、現在に至るまで”迫害の歴史の証”として保管されていたのである(国営放送ドキュメンタリー「De stakende stad」より)。 (c) studio frog

運河の大掃除

2016年が、皆様にとってよい年となりますように! 今年もよろしくお願いいたします。 よい一年の幕開けに欠かせないのは年末の大掃除。 アムステルダムの運河でも、恒例の運河清掃が行われていました(写真は2015年12月15日に撮影したもの)

映画「みんなのアムステルダム国立美術館へ」に登場する仁王像のふるさと 2

<前ポスト> 古文書によれば、岩屋寺の創建は8世紀にまで遡ると言う。由緒ある真言宗の寺で、廃寺になっていなければ、少なくとも国の重要文化財にはなっていただろうと思わせる、険しくも美しい佇まいだ。アムステルダム国立美術館が「珠玉」と誇る立派な仁王像は、この寺の番人だった。(フォトギャラリーの終盤5枚に写っている木造の小屋が「仁王堂」) 映画の中で国立美術館学芸員のメノーさんは、仁王像の入手までの流れについて「なんだか曖昧で奇妙な話があった」と言葉を濁して多くを語っていない。 昭和40年代後半か50年前後、この2体の像は忽然と仁王堂から姿を消した。「昼間あんな大きなものを動かしていたら目立つから、夜中こっそりと持ち出されたんだよ」と言う地元の長老の話を聞いていると、なぜメノーさんがあんな風に言葉を濁すのかがわかった。なんともやるせない事情で、村のみんなが「国宝級」と崇めた仁王像は、二束三文で売却されてしまったらしい。つい最近になるまで、アムステルダムの美術館にあるなんて村の人たちは知らなかったよ、と長老。駅の待合室で話を聞かせてくれていた彼に、PCに入れておいた開眼式の時の写真をお見せする。「2体ともアムステルダムにあるのかい!?」と驚く彼に、国立美術館の目玉のひとつとして、来館者を喜ばせていると伝える。「仁王堂の中にあった時は、暗かったし、下から大きく見上げるようにしか姿を拝めなかったから、こんなにちゃんと全姿を見たのは初めてだよ。やっぱり立派だねぇ。返して欲しいねぇ。だが、ここに戻ってきても誰も管理はできないから、美術館で大切にされているのが一番いいんだろうねぇ」 その昔、あの寺は賑わっていた、と長老は振り返る。「お祭りの時には、本堂へ続く長い石段の両脇に出店がたって、そりゃあ賑やかで楽しかった」。その石段には今、空になった蜂の巣や、落ち葉が積もっていた。だが本堂の横には随分と新しいほうきがたてかけてあり、時々掃除に来ている人がいるようだった。 美術館には、世界中の宝が集まっている。けれども、時折「なぜここに?」と考えさせられてしまうものにも出くわす。この仁王像もそのひとつ。お金が動いて、美術品が流れる。シリアやアフガニスタンに行けば、無情に破壊されてしまう文化遺産がたくさんあることを思えば、芸術鑑賞を愛する先進国の美術館で大切に所蔵されるならラッキー、と言えるのかもしれない。 それでも、深い信仰の対象として畏れられてきた寺の番人が、まるで夜逃げのように姿を消し闇ルートを渡ってアムステルダムへやってきたかと思うと、腑に落ちないしやるせない気持ちになる。 とにもかくにも、この2体の仁王像にとっては、たくさんのドラマが詰まったアムステルダム国立美術館が、終の棲家なのである。 追伸運転手さんと二人で重装備で山に入ったが、幸いまむしにもスズメバチにも遭遇しなかった。運転手さんは同年代の女性。彼女のお父さんは岩屋寺の近くのご出身とのことで、ずっと電話を介して道案内をしてくださっていた。これまでにも随分と日本国内を旅行をしてきたつもりだけれど、岩屋寺周辺の風景は、私の中では最も日本らしさを感じさせる場所のひとつ。まさに「ザ・日本」。廃寺とは言え、寺を囲む森には、今でも八百万の神々が宿っているに違いなかった。 photo’s: (c) studio frog 2014

映画「みんなのアムステルダム国立美術館へ」に登場する仁王像のふるさと

2月20日から渋谷で上映される「みんなのアムステルダム国立美術館へ」。同美術館の改築工事からリニューアルオープンに辿り着くまでの波乱の10年を描いた、涙と笑い溢れるドキュメンタリー映画である。怒り、失望し、妥協を重ねながらも、再び美術館の扉を開けるために猛進する全関係者たちの熱い思いが浮き彫りになった傑作。こんなにも赤裸々に舞台裏を見せた美術館はない(たぶん)。泥沼の裏話すら、今では同館の貴重な伝説だ。これが作り話でないことに驚いてしまうほどドラマティックなドキュメンタリー。お時間があったら是非! 今回の話は、その映画にも頻繁に登場する仁王像のふるさと、島根県の岩屋寺について。 この仁王像、すなわち金剛力士像は、国立美術館に新設されたアジア館の目玉だ。昨年の秋、担当学芸委員の念願で、盛大な開眼式が行われた。 京都から招かれた大勢の僧侶が執り行った、荘厳なお式。私は、そこに運良く立ち会うことができたのである。学芸員のメノーさん(映画にもよく出てくる)が式後の講演で、この2体の像のふるさと岩屋寺の写真を見せながら「芸術作品は、自分の身を守る術を持ち合わせていない。廃寺となった岩屋寺を訪れてみて、それを強く感じた」と語っていた。その言葉がなぜかとても印象に残り、この秋、私もその岩屋寺を訪れてみたのである。 この旅の始点となった名古屋近郊から、鉄道で約10時間。1日に数本しか走らない単線路線を乗り継ぎやって来たのは、出雲の山の中の駅。降り立った「よそもの」は私だけだった。駅に待機していたボランティアのガイドさんに「どちらへ?」と聞かれ「岩屋寺を見に来ました」と答えると、彼の表情がにわかに変わる。驚いてらっしゃる様子だった。「あそこへは行かれないですよ」とおっしゃる。道も整備されていないし、何しろスズメバチやまむしがうようよしていて危険だとのこと。それでも何とか行ってみたいのだと伝えると、どなたかに電話をかけはじめた。数分後町役場の方々が数人集まり、「ついこの前もスズメバチがたくさんいた。全身白っぽい服装で帽子を被り、まむし対策には長靴、登山用のスパッツなどをはいて、長い棒を持って行った方がいい。とにかく重装備で行き、スズメバチに出くわしてしまったら諦めて静かに退散するように」との忠告を受ける。そして、「岩屋寺周辺に詳しい女性のタクシーの運転手さんがいるから、その方にアテンドしてもらうとよい」と連絡を入れてくださり、翌朝宿で落ち合う約束をした。 宿に到着してからすぐにググってみると、「スズメバチは黒いものに寄ってくる。遭遇して手を振りまわしたりすると襲ってきて、一度さされると多くのハチが寄ってきて攻撃をしかけてくる」などなど、都会っ子の私は知らないことばかり。急いで近くのガーデンセンターに行って、使い捨ての白い紙の作業着を運転手さんの分と2枚、膝までの長靴、そして安全ゴーグルを購入。翌日にそなえた。 続く(click) (c) studio frog 2014 photo’s: (c) studio frog 2014

アムステルダムで執り行われた、仁王像の開眼供養

2013年10月13日。 4月にリニューアルオープンしたアムステルダム国立美術館で、仁王像の開眼供養式が執り行われた。厳かな儀式の場に様変わりしたアジア館の展示ギャラリーに、鮮やかな装束をまとった京都大覚寺の僧侶の読経が響いた。 その後、中庭で護摩祈祷が予定されていたが、あいにくの雨のため、急遽館内でも行える火を焚かないご祈祷に変更。アトリウムに集まった大勢の来館客に見守られる中、神聖な火に変わって、花びらを象ったカラフルな色紙が宙を舞った。 学芸員のメノー・フィツキさんは、式後のレクチャーの中で、仁王像について次のように語っていた。 「この美術館の仁王像は14世紀に作られたもので、かつては島根県の岩屋寺を守っていました。寺はすでに廃寺になっており、像はアートディラーから購入しました。この像があった場所を見るために私は岩屋寺を訪れましたが、そこで目にしたのは、門番のいない朽ちた仁王門でした。その側壁には、像を取り出すために開けられた大きな穴がそのまま口を広げていました。この光景を見たとき、私は何とも言えないメランコリーを感じ、悲しくもなりました。我が美術館の仁王像は、かつてはここが住処だった・・・そして芸術品とはなんとも儚く、どんなに素晴らしい作品も、自らを守る術は持ちあわせていないことを改めて認識しました」 芸術への愛情と、宗教に対する敬意に満ちた、印象的な言葉だった。そして、この美術館が2体の像の新たな住処となるようにという願いを込めて、この開眼式を行ったのだと説明した。 トラブルの連続で難航した、10年に渡る美術館大改築工事から再開までの終始を追った「新しい国立美術館」という長編ドキュメンタリーは、リニューアルオープンの時期に合わせてテレビでも放映されて話題を集めた。その中には、再オープンのメドも立たなくなるほど工事が行き詰まった頃に撮影された、メノーさんのインタビューもある。 その中で彼は、とても申し訳なさそうな面持ちで、倉庫に置かれた仁王像の胸に手をあててこう語る。「仁王像にはリスペクトが必要だ。真っ暗で、訪れる人もいないこんな場所に置いておくなんて、彼らの本来のあり方じゃない。わざわざ日本から来たのにこんなことになってしまうなんて、僕も少なからぬ責任を感じている。いつか必ず、どんなことをしてでも、最善を尽くしてこの像を美しく展示する・・・そんな思いから、夜中に目が覚めてしまうこともある・・」 この印象的なシーンを思い返しながら開眼供養やご祈祷を見ていたのは、おそらく私だけではなかったはずだ。 (1枚目の写真の一番左、2枚目の写真最前列左に座っているのがメノー・フィツキさん) (*2021年9月、内容は変えずに少しだけ文章を修正しました)

アムステルダム国立美術館の壁画

4月にリニューアルオープンして以来、連日7千人から1万人が来館する国立美術館。8月22日には、100万人目の来観客を迎えた。 そんな国立美術館の、個人的な思い出話をひとつ・・・ 2007年のこと。 国立美術館の壁画修復・復元作業の真っ最中、その様子を取材しに行ったことがある。美術修復を学ぶ大勢の学生たちが、ミリ単位の細かな作業をしていた。 この美術館を設計したピエール・カウペルスは、建築だけではなく、庭園や館内の装飾まで自ら手がけていた。だが、1950年代、アートシーンはミニマリズムに移行。天井や壁の豪華の装飾は、白いペンキで塗りつぶされたのである。 その白いペンキを、学生たちは小さなメスで丁寧に剥がし、元の絵を復元させていた。まさか館内中のペンキをこんな方法で剥がしていくのかと仰天したが、さすがにそれは不可能なので大部分は上塗りして再現する。型紙を使って、細かな模様を丁寧に描いていく。正直、背後に広がる何ヘクタールもの白い壁が、いつの日か絵柄で埋め尽くされるなんて想像ができない。取材をしながら、私は気が遠くなってしまった。 そんな思い出があるため、リニューアルオープンで私が一番感激したのは、落ちついた色味ながらも鮮やかな壁画と天井画を見た時だった。取材の時に見た大勢の学生たちの汗と涙(?)の結晶に、思わず涙腺が緩んでしまった。この美術館に来る機会があったら、この壁画を描いた学生たちの地道な偉業にも思いを馳せてみてほしい。 写真は、2007年の取材時に撮影したもの。

アムステルダムの桜 続編

アムステルダムの桜 続編 ウィレム・アレキサンダー皇太子の即位式まであと4日。 ホテル・オークラ・アムステルダムの近くの桜並木は、満開を少しだけ過ぎた感じです。 去年は、写真を撮っていたら「この花はサクラという日本の花だよ」と教えてくれるオランダ人がいたのだが、今日は「何年も見ているのに、いまだに花の名前がわからないんだ」と言う男性と会った。「この近くに住んでいて、毎年きれいなだーと思って見ているんだけど、君はこの花の名前知っている?」そう話しかけてきたのは、とてもお花見を楽しみそうなタイプには見えない男性。サクラという日本の花だと言うと、「ゴッホが絵に描いた花でしょう?」と彼。それはアーモンドの花だと言うと、「どこが違うの?」と聞かれて困った。たぶんちょっと違う。よく似てるけど。 日本の皇室にはほとんど関心がないが、雅子様が即位式に出席するというニュースを聞いて、少しだけググってみた。適応障害とか、11年ぶりの公務とか、今まで知らなかったニュースと共に、びっくりするような批判の言葉も・・・オランダでも、朝のラジオ番組で雅子様が即位式に出席するというニュースが取り上げられていた。ストレスのことや男の子の世継ぎを生まなかったことなどと共に、日本では女性は天皇になれないことなどがゲストから説明されると、プレゼンテーターは驚いて、「オランダでは3代も女王が続いていたので、男性の国王で大丈夫?なんて思ってしまうけれど、日本は逆なんですねー」と笑った。 あるテレビ番組でも、「男性国王に、包容力を持って国をまとめることはできるのか?」なんてことが話題になったり。123年女王の存在に慣れ親しんだオランダ人にとって、男性国王の誕生はまだ違和感でいっぱいだ。だが4月30日の即位式から1ヶ月もすれば、もう誰も「”男性の”国王」なんて言わなくなるだろう。 追伸:写真の一枚に、緑色の南国のインコが写っている。なぜかたくさんいて、よく群れを成して飛び回っている。人間だけではなく、鳥の世界もマルチカルチュラルだ。 photo: (c) studio frog

Rijksmuseum アムステルダム国立美術館 1 〜間もなくオープン〜

10年に渡る改築工事を終え、4月13日、アムステルダム国立美術館がいよいよリニューアルオープンする。先週のプレスプレビューでは、世界各国のメディアが一足先に館内を見学。欧州やアメリカを始め、アジア各国からもメディアも集まり、その関心の高さを伺わせた。美術館には、館長(上写真左から2番目)始め、コレクションの主任(上写真右から3番目)、美術館の建築家(右から2番目)、内装・展示設計者、文部大臣などが勢揃いし、インタビューに応えた。 アムステルダム国立美術館は、芸術を展示する美術館であるだけではなく、オランダの歴史を語る博物館でもある。そのため、展示は作品の種類別ではなく年代順に見せ、歴史の流れを体験できるように構成されていると、ウィム・パイベス館長は説明した。そして「国立美術館は、世界屈指のコレクションを誇る美術館です。世界各国から見に来てほしい。同時に、オランダ社会にとっては、自国の歴史を学ぶという役割も担っています。オランダ中の子供達には、我が国が誇る最高傑作レンブラントの<夜警>を少なくとも一度は見て欲しいと思っています」と、芸術教育に貢献していく意向を強調した。 館内の様子は、次回に続きます。

レンブラントの大作「夜警」の引っ越し

3月27日の昼。 レンブラントが描いた集団肖像画の最高傑作「夜警」(1642)が、大がかりな引っ越しをした。 幅4.54m、高さ3,79m、フレームなしでも170キロというこの巨大な絵画は、アムステルダム国立美術館が誇る珠玉の傑作。2003年から続いていた同美術館改築工事のため南別館に展示されていたが、4月13日のリニューアルオープンを前に本館の定位置に戻されたのだ。その大きさ故に館内では移動ができず、幾重にも厳重に梱包されて美術館の周りをぐるりと路上移動。一帯は交通規制されて立ち入り禁止に。大勢の警察官にエスコートされて、運搬作業はゆっくりと、そして慎重に行われた。 まず、南別館の2階にある専用搬出口から出てきた木枠と特別シートで梱包された「夜警」を、搬出口外側で待ち受けていた運搬用保護ケースに収め、クレーンを使って庭に待機している運搬台の上にのせる。そして、美術館横の道を通りミュージアム広場に面したメインエントランスホールへ。この絵の定位置である2階の「夜警ホール」の床部分(下の通路から見れば天井)にある専用の搬入口からチェーンで引き上げられて、9年ぶりに定位置に帰還した。その後、10名のスタッフが3時間以上かけて壁に掛けたと言う。これまでは床から52cmの高さに展示されていたが、混雑してもよく見えるようにと10cm高い62cmの位置に設置。これによって、「より迫力のある遠近効果を楽しめるはず」と美術館は説明している。 「夜警」はもう、永遠に門外不出です! 2003年に改築工事が始まる時にも、「夜警」は今回の逆ルートを路上移動した。オランダがドイツ占領下にあった第二次世界大戦中には、芸術品を次々と押収していたドイツ軍の手から逃れるために、額から外して丸めた状態で、数年間リンブルグ州の洞窟に隠されていたこともある。 今回の運搬プロジェクトを無事終えて、美術館担当者は金輪際こんなことはしたくないと言った様子で「この絵はもう、永遠に門外不出です」と安堵の表情を見せた。 当初4年半と予定されていた改築工事だが、度重なるアクシデントで暗礁に乗り上げ、工事再開のメドすら立たずに放置されていた時期もある。約10年の間工事現場と化していた芸術の殿堂。そのリニューアルオープンは、まさに国を挙げての大イベントとなる。 <スライドショー> 「夜警」が外に出てきてから、再び美術館の定位置に入っていくまでの様子。黄色やオレンジ、青のベストを着ているのは報道陣。BBCの旅番組のクルーの姿も。美術館2階の外で待ち受けている、横が青いケースが運搬用保護ケース。その後ろに細長い搬出口が見える。 キューレーターたちは心配顔。 定位置の「夜警ホール」の下からチェーンでつり上げて、運搬は完了だ。 photo Kiyomi Yui

着衣水泳

着衣水泳 昨年の春、水泳検定の最初のステップ「A検定」をクリアした息子が、この度「C検定」に挑戦。これは、国の水泳施設組合による子供のための正式な水泳検定で、A,B,Cの順に難易度が上がる。 C検定をクリアすると、水中で起こるたいていの一般的な状況に対応できる技能を取得すると言われている。平泳ぎ、背泳ぎ、クロール、そして潜水もできなければならないが、日本人の私にとって一番の驚きは、何と言っても着衣水泳のテストだ。 半袖、半ズボン、ウォーターシューズという軽装で良かった検定Aの着衣水泳は、検定Bでは長袖、長ズボンとスニーカーに。Cになると、その上に厚手のウィンブレーカーのような上着が加わる。そして、前屈みの状態で半回転しながら飛び込み、背中から着水。準備体操もなければ、事前にシャワーも浴びない。まさに、不意に水に落ちた時と同じ状態で練習する。着水後は30秒立ち泳ぎをした後60秒仰向けに浮かび、50mの平泳ぎと背泳ぎ。そのコース上に浮かべられたマットの下を潜ったり、よじ登って乗り越えたりもする。 顔を水につけないように飛び込むテストもある。息子が通うプールでは、これらの飛び込みのテストは水深2m以上のところで行い、水から上がる時にははしごを使わずにプールサイドをよじ登ってこなければならない。 「着衣水泳」と日本語でググってみると、Wikipediaにも項目があった。「運河の多いオランダやイギリス、オーストラリアなどでは、護身術としての着衣水泳の教育が、競泳よりも重視されている」とある。 頑張ってC検定まで辿り着いた子供達の、水中での落ち着きぶりが頼もしく見えた。 (C) studio frog

へスター財団(Stichting Hester )from update NL

ヘスター・ファン・ニーロプさんの母、アルセーネ・ファン・ニーロプさん(写真)は、2005年、「ヘスター財団」を設立した(2020年1月1日に解散)。ヘスターさん殺害から6年後にシウダース・フアレスを訪れ、同じく娘を殺害された母親に出会った直後のことである。 「心理学の本には、このような衝撃的な出来事の悲しみは、時間が解決してくれるとあります。1年経てば、悲しみは和らぎ始めて行くのだと。でもそれは間違いでした。時間は、耐えがたい悲しみを抱えた人生と、どのようにつきあえばよいかを学ぶ助けはしてくれます。しかし、悲しみそのものが薄れたり、消えて行くことは決してありません」とアルセーネさんは言う。

400 women フェミサイド犠牲者のポートレート展=from update NL=

アムステルダムの外れにある砂糖工場の跡地で、「400women」という絵画展が開催されていた。 175人の若い女性たちのポートレート画を集めたこの展覧会は、イギリスのアーティスト、タムシン・チャレンジャーさんが企画。彼女の呼びかけに応えた多くのアーティストが参加したプロジェクトだ。 描かれた女性のほとんどはメキシコ人だが、オランダ人もひとりいる。唯一のヨーロッパ人だ。皆、メキシコ北部の工業都市シウダー・フアレスで殺害された女性たち、フェミサイドの被害者である。 砂漠に囲まれたシウダー・フアレスはチワワ州最大の都市で、アメリカとの国境に近い。 戦争紛争地域を除けば、今「世界で最も危険な都市」と言われているらしい。 この街では、日々多数の強姦虐殺事件が起こっているが、犯人検挙率はわずか2〜3%。過去14年で約1000件強の被害が登録されているが、この数字は氷山の一角にに過ぎず、正確な件数は把握されていないと言う。 最近では、遺体が発見されずに行方不明になるケースが多く、警察による捜査は始まりすらしない。被害者の年齢は年々下がっていて、13〜18才の少女が主なターゲットだ。 この検挙率の異常な低さは、犯罪組織の力の強さを物語っている。 街は、巨大な犯罪組織であるドラッグカルテルに支配された無法地帯。男性優位のマッチョ文化や根強い貧困から、残虐な性犯罪があとをたたない。警察や被害者の遺族たちが、誰が犯人かを知っているケースも少なくないらしい。犯人が無罪釈放されたことに抗議した被害者の母親が白昼堂々裁判所の前で射殺されるなど、街全体が全く機能しない法とともに泣き寝入りしている。 多くのケースでは、被害者の女性達は極めて残虐な方法で殺害され、遺体は砂漠に、まるでごみのように捨てられている。 そんなシウダー・フアレスの状況に対する抗議声明として企画されたのが、このポートレート展だ。 アーティストたちは、被害者たちの生前の写真を入手し、遺体が発見された場所や状況などに関する情報を集めて制作に臨んだ。一被害者というアノニマスな存在だった女性たちに顔を名前を与え、このあり得ない状況を広く世界に知らしめるのが狙いである。 描かれている少女達の中には、3才、5才、7才といった子供もいる。 唯一のヨーロッパ人被害者、オランダ人のヘスター・ファン・ニーロプさん(当時27才)は、1998年、ホテルの一室で強姦され殺害されている。 ヘスターさんのポートレート。モノクロで直線的な構図は、ヘスターさんが建築家であったことを象徴している オランダでは、へスターさんの被害が繰り返し報道されていたことから、シウダー・フアレスの惨状について知る人は比較的多い。とは言うものの、真の実状は平和なオランダからは想像も及ばず、小さな少女を含む大勢の被害者を前に、訪れた人々は絶句していた。 この展覧会は、オランダに先駆けイギリスでも開催され、大反響を呼んでいた。 続く

Ajax-AZ  (from updateNL)

1月19日 アムステルダムのサッカーチームアヤックス対アルクマールのチームAZの、特別な一戦がアヤックススタジアムで開催された。 なにが特別だったのか・・。 それは観戦できるのが、小学生と引率者だけに限定されていたからだ。 警備の事情から、スタジアムは半分のみ使用したが、2万人の子供が一斉に叫ぶ様子は壮観。いつもの試合とは異なる無邪気な活気で溢れていた。

ウィム・クロウェル

私は、デザインとアートは別世界だと考えていますこのふたつの世界は、融合させないほうがいい(ウィム・クロウェル) ウィム・クロウェル(1928~2019)は、戦後のオランダで最も重要なグラフィック・デザイナー、タイポグラファーである。 1963年、創設者のひとりとして、この国初のデザイン・プロダクション「トータル・デザイン」を設立したクロウェル。郵便局やKLMのロゴ、スキポール空港のサイネージの他、美術館のポスターデザインでも多くの名作を残した。それらの作品に共通しているのは、半世紀以上前に作られたものとは思えない斬新な輝きを放ち続けていること。今もなお、世界中のモダニストの感性を刺激し続けている。 昨年の秋に発表された「ファン・ゴッホ書簡全集」は、ゴッホ研究の集大成として話題を集めた。手紙、絵、スケッチ、そして翻訳など、多様な学術的要素が詰まった複雑な構成だが、これをわかりやすく簡潔に整理して、知的な印象のデザインを与えたのはクラウェルだった。 この本のデザインを含むこれまでの仕事のこと、そして彼のデザイン観などについて話を伺った。 読者がロジカルに情報処理するための、ルールをデザインする 以下C=クロウェル、Y=ユイ Y:ファン・ゴッホの書簡全集は、研究者たちが15年に渡る研究の集大成として出版された本ですが、デザインにはどのくらいの年月を費やしましたか? C:最初の打ち合わせから完成まで約2年半です。この本は、構成要素が多いことからタイポグラフィが非常に複雑でした。ゴッホが交わした手紙、手紙に描かれたスケッチや実際に描かれた絵画、交流のあった芸術家の作品や、彼らが第三者とやりとりした手紙。そして同時代の芸術家の作品などです。わかりやすいシステムをつくるのが、一番難しかった点です。実際に作業をする複数のデザイナーたちが、同じ条件でレイアウトをつくれるようにするルールも必要でした。絵をページに配置するのはとても感覚的な作業で、人それぞれのフィーリングで大きく左右されますからね。簡潔に、シンプルにものを見せるというのは、実はとても複雑な作業です(笑)。 Y:デザインの特徴は? C:読者がロジカルに情報処理できるようにするためのルールも、たくさんつくりました。たとえば、書簡は全て実物大で掲載。そこにスケッチが描かれていたら、その完成作品である絵画を隣ページに掲載する、などです。ゴッホは手紙の中で、自分の絵についての考えや気持ちをたくさん説明しているので、それらを完成作品と並べて見ることで理解は一層深まります。そしてひとつの書簡で触れている作品は、全て切手サイズで掲載しました。繰り返しになることは多かったですが、読者が該当する絵を、ページを前後させながら探す必要がないようにしたのです。 Y:このプロジェクトを終えて、ファン・ゴッホの全てを知り尽くしたのでは? C:知り尽くしましたね。でももうこれ以上知らなくていい(笑)。彼は、それはそれは難しい人だったでしょうね(笑)。自己中心的で。ゴッホというと情熱の画家と言う印象がありますが、実はとても計算高い人物でした。 この本は、ゴッホとの間にかわされた900以上の手紙すべてを、一文字も逃さず研究した集大成です。翻訳も非常に正確です。研究者たちも「ゴッホの書簡に関して、これ以上完成度の高い研究がなされることはないだろう」と言っていますが、まさに究極のゴッホ研究書といえるでしょうね。 システマティックなデザインが、好きだ Y:あたなはグラフィックデザインによって、煩雑で大量の情報にルールを生み出すのが得意ですよね。以前は電話帳のタイポグラフィも手がけていましたね。 C:その通り。内容が複雑で煩雑になるほどやる気が湧きましたね。フィーリング重視のタイポグラフィを好むデザイナーもいますが、私はシステマティックなものが好きです。私の資質が、そういったものに向いているのでしょうね。 仕事では、ポスターデザインや展覧会のキューレーションなどの方がメインで、このような難解なタイポグラフィの仕事はその合間に手がけていました。いい刺激になりましたね。異なるタイプの仕事は、お互いの領域を触発し合いますからね。 ポスターのデザインでも、私はまずシステムを考えていました。グリッドも好んで使いましたね。ファン・アベ美術館のポスターを継続的に手がけていた時には、展示作品から受けたインスピレーションをタイポグラフィに置き換えて表現することが多かったのですが、それらはいつも構造的で建築的でした。「LEGER」のポスターも、この画家のある時期の特徴だった黒い縁取りのようなラインからインスピレーションを得ています。 C:私は、1950年代に一世を風靡したスイスのタイポグラフィから大きな影響を受けました。システマティックなスタイルで、視認性が高く、客観的、数学的、構築的なアプローチが特徴です。特に、マックス・ビル、ヨゼフ・ミューラー・ブロックマン、エミール・ルーダーらには強い感銘を受けましたね。 スイスタイポグラフィーの代表的な書体「アクチデンツ・グロテスク」を初めて見た時には、心から感動しました。 タイポグラフィは時代によって大きく変化します。最近は、私が好んだシステマティックなスタイルは背景に押しやられていますね。今はフィーリング重視の時代です。 しかし、昔のようにひとつの時代を強烈に制覇するような大ムーブメントは生まれにくくなっているので、以前のスタイルも早い周期で戻ってくるでしょう。 このスパンの短さこそ現代の特徴です。メディアも速いスピードで多様化し、次々と新しいものが生まれていく。若いデザイナーには本当に大変な時代だと思いますよ。けれども、羨ましくもある。テクノロジーには、私もとても興味がありますからね。最先端のテクノロジーを使うのは、本当にエキサイティングなことだろうと思います。 1967年、私は当時の最先端だったデジタル植字機のための「ニュー・アルファベット」というタイプ・フェイスをデザインしました。デジタル植字機の技術の限界をコンセプトに据えてデザインした実験的なものです。同僚たちはみな、「機械の短所を補うタイプ・フェイスなんて愚かだ」と批判しましたが、このレベルの機械と今後数十年つきあっていかなければならないと考えれば、専用のタイプフェイスがあってもいいじゃないかと思いました。 デジタル植字機はうまく弧を描けないので、このタイプ・フェイスは水平、垂直、そして45度のラインだけで構成されています。そして横並び同様、縦に並べても美しく見えるように文字幅も統一しました。とは言っても、実験的なデザインでしたから、決して読みやすいものではありません。その後更に改良もしましたが、植字の技術自体が発達していったことから、「ニュー・アルファベット」が実用化されることはありませんでした。 でもこれが90年代になると再び注目を浴びはじめたんですよ。イギリスの音楽雑誌で使われたり、「ジョイ・ディビジョン」というイギリスのグループがレコードジャケットに使ったりしてね。若いモダニストたちの目には、時代遅れの機械のための文字が「クール」にうつったんです(笑)。驚きましたね。同時にとても面白い現象だと思いました。 デザインとアートは、融合しないほうがいい Y:近年、デザインとアートとの融合がひとつの論点になっていますが、それについてのあなたの意見は? C:私は、デザインとアートはまったく異なる別世界だと考えています。もちろん共通する部分はありますから、お互いを刺激しあうのは結構。しかしそれを融合させていくことには賛成できない。デザインとはある目的を達成するためのもの。そしてアートは、アーティストの存在の源で自身に問いかけながら制作していくもの。アートの分野で活躍しようとするデザイナーを見ると、「デザイン」では自分の力を出し切れないのだろうか、何か不足があるのだろうか、と疑問を感じてしまうんですよ。このことについては、私も多くの同僚たちと論議しました。反対の意見が多いことも承知していますし、それは尊重しています。でも私は、2つの世界は別々に存在している方がよいと思いますね。 Y:今はどのようなお仕事を手がけていらっしゃいますか? C:リートフェルトの本のデザインを手がけています。今年の末には発表されるでしょう。この仕事を最後に、現役を引退しようと思っていますよ、少しのんびりもしたいしね(笑)。 Y:モダニストのあなたが最後に手がけるのがリートフェルトとは、とても象徴的な気がします。完成を楽しみにしています。ありがとうございました。 portrait photo by kiyomi yui 2019年9月19日、クロウェル氏は逝去されました。この記事は、2010年4月に投稿したものです。

エリック・ケッセルス

「最近興味を持っているのは、緻密に計算された完璧なクリエーションばかりの世の中で、魅力的な間違いを探すこと。懸念していることは、社会の不寛容化」(エリック・ケッセルス) 「最近興味を持っているのは、緻密に計算された完璧なクリエーションばかりの世の中で、魅力的な間違いを探すこと。懸念していることは、社会の不寛容化」(エリック・ケッセルス)